あの時、僕はここにいた。
D51の弟分、D61を求めて 留萌本線
D61のねぐら。深川機関区
いきなりですが!「やちゃいました!!」  私が初めてD61に会いに行ったのは、昭和46年。中学2年の時、ファーストナンバー(1号機)を写しに行こうと、まず留萌機関区でD611,そして旭川機関区でC551という計画を実施。札幌から中央バスで留萌へ、足早に機関区へ向かったもののD611の姿どころかD61の姿が見えない。
6台もいるのに、「なんて、運が悪いんだ」と思いながら、次に期待をかけ旭川へ、ところが深川に向かう途中、バスの車窓から目に飛び込んきたのはD611の牽く貨物列車。赤いナンバープレートと主連棒、ランボードの白線、フロントデッキの手すりの黄色。
一瞬の出来事だったが、「あれはD611に間違いない、本当に運が悪い・・」、今回の撮影旅行は、この運の悪さを引きずる旅となった。気分を変え、旭川機関区へ向かったもののC551の姿もなく、C5547とC5549をカメラに収め、機関区を後にした。C551は翌年、鉄道100年の記念行事で梅小路機関区に行ったまま、北海道には戻って来なかった) 早急に旭川での撮影を切り上げ、まだ陽のあるうちにと、最後の望みをかけ再度、深川へ。今度こそはと期待をかけ機関区に向かう、そこにいたのはD614.。
煙室扉のサビが気になったが、初めてのD61に満足!そして庫の奥に進むと、そこには「いた〜!D61〜1!」。
ところが暗い機関区の中、私の未熟なカメラ技術ではどうにもならず、諦めて外にでていたD614と9600の入れ換えを撮影して駅に戻った。待合室で帰りの列車を待っていた時、セキを牽くD614の姿が・・慌ててホームに向かい撮影、まもなく発車だろうと思い、少し離れた構内へ。汽笛が鳴り、長いセキを連ねたD614が黒煙を吐いて目前に。カシャ、シャッターを押す、長い貨車の後ろに後補機 「あ〜!D611だ!」
フイルムを巻上げた時、ガリガリ・・カシャ・・・出来上がった写真が上の2枚。そして次にD611にあったのは、苗穂工場で解体される姿だった・・僕には、最後まで運のないカマだった・・・。

左上) D613,D615 給炭、給水を終え出区。 中上) D614 初めて撮ったD61.。機関区入り口ギリギリに停まっていて撮影に苦労した。 右上) D615 このカマには前照灯のツララ除けが付いてなかった。 左下) 構内の貨物、客車、給炭クレーン。活気に満ちていた。 中下) 更地になった機関区跡。右下 D614の後ろの水銀灯の鉄塔から、昔の機関区の位置を推測できた。 右下) D614 39696.。最後まで生き残ったD61.。
昭和46年。深川機関区所属は、D514.D5162.D5186.D51347.D51543.D51738.D511116 (7輌) 19605.19609.29626.39628.39696.49616.59612.59614.59695 (9輌)後にD613.D614.D615が留萌から転属するもののD611.D612.D616は留萌で廃車となった。 〔昭和46年、昭和47年8月4日、昭和48年撮影)